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鴉色の戦闘服をまといて

古典的占星術を勉強中の日常のたわごと★
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† 『不安を与えるミューズたち』(Giorgio de Chirico) を私はこう見た †

ジョルジョ=キリコのような奇妙な絵画の場合、見方がイマイチ判らんと言う方が 大半だと思います。

芸術性の云々は個々の感性の問題でもあるので脇に置くとして、 何を描いているのかそのものが判らない、と理解する意欲さえ萎えてしまう人が居ると思います。

ジョルジョ=キリコの(メタフィジカの)絵は、一見 奇妙な絵です。

でも、こういう画家の絵は、まず意味や表現を持たせています。無意味に描くことは無いし、表現者である以上 無意識に描いても そこに思念や感情が現れてしまうものなのです。 画家のメッセージを読み解くことで、絵画に対する見方が変わります。

とりあえずは、まずは素直に鑑賞して、その色彩やモチーフや構成の面白さを感じるってことが第一です。 下手に先入観や知識があると、却って 感性を邪魔することもあるかもしれませんからね。

『不安を与えるミューズたち』

結論から言うと、この絵は、「本来の仕事を放棄してしまい、周囲を不安にさせている二人を描いたもの」です。 つまり題名の通りの絵です。「不安を与える」ってのは、「変な絵を描いて、この絵を見た人を不安にさせよう」なんて意味じゃないので気を付けてね。

どこに、そう描いているのか? なぜ、そう判るのか?ということを、私なりに解説します。 (言っておくと、私の独自の見方なので、これが正解というわけじゃないので、それをお断りしておきます。)




キリコは、人の表情を使って 喜怒哀楽を単純に表現することを好みません。日本的に言うと、それは無粋で野暮ってやつです。 人の思いや行動、その本質の部分で 物に例えて表現する画家なのです。

そういうことを念頭に置いて、この絵を見てみましょう。

題名のミューズは芸術や娯楽の神様(ギリシャ神話で、3人姉妹の女神)です。

左の頭部がマネキン 胴体が彫像の人物は、陽に背を向けて 俯いていますね。 明らかに後ろ向きの暗い感情を抱いています。

中央の彫像は、頭部のマネキンを外して足元に置き、陽に向いて座って佇んでいます。 頭部を外すということは、感情や思考を拒否していている呆けた状態です。

この両者は真反対の方向を向き、互いに無視しているかのようです。

両者の間には、おそらくパーレ(ヴェネツィアのゴンドラを止める棒)が突き刺さっていて、両者を隔絶しています。

ここは おそらく 舞台の上です。彼は 演舞場を描くのに、記号的にフローリングのような床を描きます。

手前にある箱のようなものは、積木だということです。遊びの象徴であり、芸術・踊りの神様が それをほったらかしにしているということは、ミューズが本来の役目を放棄しているという状態です。

奥の彫像も 残る一人のミューズです。ミューズたちと表現されている以上 3人描かれるのが普通です。 また、ただの彫像では無い証拠に、顔がのっぺらぼうになっています。 キリコが彫像を彫像として描くときは 顔を描くのが習わしになっているのです。 キリコのネオメタフィジカ時代の世界で、顔を描かないのは それが人であることを意味しています。 人間と別世界の神の顔のときは顔を描くので、この題名の「ミューズ」とは 人間の芸術家・舞踊家の比喩だと思われます。

おそらく、中央のミューズが 失恋か何かしたのでしょうか、そして ケンカでもしたのか 二人の間で軋轢があって、 芸術や舞踊で人を楽しませるという本来の役目を放棄してしまっています。

その3人目のミューズは、建物の影の中から、この二人を遠目に見ています。

(1925年版では) このもつれた状況を何とかしようとオロオロしているのでしょう。両手が制止や困惑の仕草になっています。

今回の1974年版では、これが挨拶のように手を挙げています。混乱よりも仲裁のために諌めているような感じです。

彼女だけが 日陰に配されています(というか、二人のミューズの影と違う方向へ伸びた翳が彼女を覆っている)。 3人目の彼女が、当の二人の諍いとは別であるという状態を表現しています。

二人がケンカして役目を放棄している状態に、3人目のミューズだけでなく、 また別の見物人も不安になっているのを表現しています。

んん? 3人しか描いてないよ、他の人なんて どこにも描かれていないって?

いえいえ、もう一人、ここには人が居るのです。どこだかお判りになりますか?

右下から伸びている影がありますよね。これ、キリコの他の絵でも出てくる表現です。

これはおそらく、キリコ自身の表現で、カンバスの影なのです。キリコは 人陰で 人を表現します。 形がカンバスの時は、それが彼自身のときです。

キリコが実際に街に出たときに、大道芸人かオペラかで、ケンカして舞台どころじゃなくなった事件でも、遭遇したのでしょうか。 その光景にインスピレーションを得て、描いたのでしょう。

舞台の奥、遠くには、お城と工場があります。

彼は 地平線など遠くに工場など建築物を配するのが好きです。

これは 街中であること、都市の表現であり、人間活動の象徴のようです。 彼の絵はさっぱりしているので、最低限の物だけだと、空虚な空間に物体があるだけの絵になってしまいます。 そこで、「これは 都市であり、人間社会の風景なのですよ」という記号的表現です。

そしてキリコは、これは 彼の絵画の美的な拘りだと思うのですが、明瞭な3点配置・三角配置を好みます。 この絵でも、左下の近距離~右の中距離~中央の遠距離 という視点3辺の三角配置を構成しています。

二人のミューズ、残る一人のミューズ、そして右端の建物の陰のライン、その次の一角を構成する部品として お城が置かれています。 近距離=中距離=遠距離の視点誘導による奥行き感によって、絵画の中に大きな空間が成立するのです。

お城は、国家の象徴、文化の象徴です。人間活動なら ここに工場や塔が置かれていたかもしれません。 工場を隅に追いやって、お城が中央に配されているのは、ここが国民的な文化施設なのかもしれません。 例えば、国立劇場とか、有名な大きな広場だとか。

この絵は、「パフォーマーの仲間割れで仕事を放棄してしまい、それで困っている 仲間と、その光景に心配そうに見ている観察者」という絵のようです。 そこで「不安を与えるミューズたち」という題になっているんだな・・・と理解できます。


・・・こうして、「ヘタウマ」とか「非論理的」「理解不能な絵画」と言われている絵でも、実は きちんと内容を読み解くカギは描かれているのです。 ここまで読み解くのに、時間も脳みそも使うはずです。でも、そうすると、絵画の楽しみ方が また別の楽しみが出てくるのです。

・・・・なんちゃってね、ただの服馬鹿じゃないよって意味で、無理くりカッコイイことを書いてみた。



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